京都は、四方を山にかこまれた盆地だ。
夏は暑く、冬は寒い。そんな住みにくい土地に、昔から国の中心の都があり、大勢の人々が集まった。
戦さがあり、疫病がはやり、飢饉や天災があり、多くの人々が死んだ。死体は東と西の山の麓にうち捨てられ、吹き寄せられた枯葉のように、盆地の隅で朽ち果てていった。
「あだし野の露消ゆる時なく、鳥部山の烟たち去らでのみ住み果つる習ひならば、如何にものの哀れもなからん、世は定めなきこそいみじけれ」と『徒然草』にも記されている。
京の東は、東山の東大路通りから鴨川までの一帯が鳥辺野、西は小倉山の麓のあたりが化野(あだしの)と呼ばれ、古来より風葬や土葬、あるいは火葬の地とされていた。
あだし野の露や、鳥部山の煙のように人の命は儚く、都では人が死なない日はなかったという。
嵯峨野の緩やかな坂道を登りつめると、そこに化野念仏寺がある。
法然上人がここに念仏道場を開いたことから、化野念仏寺と呼ばれるようになったらしい。
それより少し前の平安時代初期に、弘法大師(空海)が野ざらしにされた死体を哀れに思い、ここに寺を造って、里人に土葬という埋葬の仕方を教えたという。
境内には、平安時代から江戸時代までの、およそ8千体の石仏が集められている。どれも風化して、仏の顔を残すものはない。
化野の「あだし」とは、儚いとか空しいとかの意味があり、「化」は、生が化して死となり、この世に再び生まれかわる(死から生へ化す)ことを現しているという。
千年の時をかけて石に還ろうとする、無数の石仏に囲まれて立っていると、死と生の境界が曖昧になり、千年の死も、千年の命も一瞬の儚さにみえてしまう。
「命があるものの中で、人ほど長く生きるものはない。カゲロウは夕方には死に、セミは春も秋も知らないで死ぬ。充実した気持で一年を生きれば、それなりに長くも感じられるはずだ。ただ、もっと生きたい、まだ死にたくないと願うばかりでは、千年生きようと一瞬の夢のようなものである」(意訳)と兼好法師も書いている。
あだし野は、命の長さが分からなくなるところだ。