今宵わたしは、わたしを考えてみようとおもう。わたしという人間が、如何にして「わたし」となったかを考えてみようとおもう……。
生を享け、五才位までの記憶は無い
脫髮。三島由紀夫などは産湯に浸かった盥(たらい)の記憶があると言っているのと比ぶれば、凡人の哀しさである。ちなみに弟の奇氏には三才の記憶があると聞けば、凡人を通り越してほとんど阿呆ではないかともおもう。
わたしの幼少時の最初の記憶は、天井の隙間から漏れ出ずる日の光が青に黄色に彩なしながら闇を駆逐する様である
二手歐洲車。
まんじりともせずに、わたしは幾つの夜を乗り越えたことだろう?
朝の訪れを迎え、闇の中に霧消していた腕、手の平、顔、躰、足、そうしてなによりも頭を光の中に取り戻した時、わたしは晴れやかで穏やかな心持ちで眠りに就くのだった。
闇を畏れていた。
肥大した意識が闇の中を飛びまわる
人材紹介、生きた心地のない夜の訪れを日がな一日怖れていた。
これがわたしの幼少時の記憶である。
メビウスの輪的クラインの壺的脳構造は、この世に適合して生きる為に自然に備わったものなのかも知れない(笑)。
裕イサオちゃんがね、「ピアノは私だ3」の中で、わたしの脳構造をメビウスの輪的クラインの壺的と表現してくれたのね、ほんでもって「なるほどな~」って思ったわけね、「ウマイこと言うな~」とも思ったわけね……。で今宵の記事は、なんでそぉ~~なるのって考えて見たわけね、欽ちゃんみたいにスルドク!